全肯定と思考の幅
こんにちはお久しぶりです。はまです。
さてみなさん、「全肯定」してますか?
ふと思い立ったので今日は全肯定の話をしてみようと思います。
幸いにも僕の周りには全肯定侍が群雄割拠の跳梁跋扈しているのですが(語彙力)
世の中にはその姿勢に対して脳死全肯定だ、と難癖をつけてくる人々がいるそうです。
そういう人たちはどうせこの記事を読んで考えを改めたりすることは無いのですが、なんとなく自分の全肯定に関する考えをまとめておくことで自分の立ち位置をはっきりさせておこうと思い立った次第です。備忘録的なものですね。あまり小難しい話を長々とするつもりは無いのでお気楽に読み流してください。
1. 一般解と特殊解
「一般解」と「特殊解」という単語は微分方程式の解でよく使われるものなのであまりピンと来ない方も居るかもしれません。簡単に説明すると、
一般解というのはy=Ax+2A、というふうに任意の文字を含んだ方程式の形で与えられるものです。この一般解の中の文字Aに好きな値を代入した形、例えばA=1を代入した場合はy=x+2、A=2を代入した場合y=2x+4、というような形が特殊解と呼ばれるものです。Aにどんな値を入れてもこの式は成り立つので、この例では特殊解は無限通り存在することになります。
なんの話だ?と混乱した方もいるかもしれません。すみませんここからが本題です。
2. 物語と一般解
我々は日々様々な物語に触れます。アニメや漫画、映画、小説、ドキュメンタリー、あるいは音楽も、本当に様々な物語に満ちています。
その物語を読み解くということは、その物語が示したい「一般解」を導くことだと僕は考えます。
例えば「猿も木から落ちる」という物語を受けとった時に我々が導き出す一般解は「その道の達人でも失敗をすることがある」という教訓です。
この一般解に自分の身の回りからしっくりくる値を代入してみることで、例えば「なるほど、確かにイチローも三振することがあるなあ」という特殊解が得られます。特殊解は無限に存在するので、各々が分かりやすいように共感を得ることができるわけです。
3. では、脳死全肯定とは?
脳死全肯定とは先程の例で言うならば「猿も木から落ちる」という物語を受け取ったときに「なるほど!猿も木から落ちるんですね!気をつけます!」というような行為です。なかなかいないですよねそんな人。
流石に諺を例に出すとそんな馬鹿なやつおらんやろ、となるのですが実際のところ意外とこんなふうに物語を字面通りにしか受け取ることができない人というのは一定数存在するように感じます。(もちろん意図的に字面どおりに受け取って楽しむように作られている作品もたくさんあるので一概に間違っているとは言えないのですが。)
多くの場合(少なくとも僕の周りでは)脳死全肯定という言葉の矢面に立たされることが多いのは考察ブロガーの方々だと思います。では彼らが行っているのは本当に脳死全肯定なのでしょうか?答えは言うまでもないですよね。
4. それはお前脳死全否定やないか
あんまりこういう「アンチへの反論」というのも好きじゃないのですがちょっとだけ。
アンチの方々は「は?猿が木から落ちるかよwwwガバガバ脚本wwwww」みたいなレベルの批判をよくやってる印象があります。それはお前脳死がすぎるぞ。
うん、このくらいでやめておきます。
5. 思考の幅
これは自信持って言える僕の数少ない長所なのですが、本当に物事に怒ったり苛立ったりすることが少ないです。なぜかというと、たぶん常に思考に幅を持たせているからなんですね。
一般解というのもいわば幅を持たせた解釈の方法で、さらに言うと微分方程式には特殊解とはまた別に「特異解」というものもあります。特異解とは「一般解の形で示すことのできない解」のことです。「猿も木から落ちる」の例で言うと「達人でも失敗することがある」という形では表現できない新たな解釈が存在する(ことがある)ということですね。要するに想像もつかないような例外がいつだって現れうる、ということです。
ここまで幅広い解釈の存在をあらかじめ容認しておくことで多くの物事を柔軟に受け入れられるし、同意し難い内容だとしてもそういう考えもあるよなあと割り切ることができるのです。
この考え方は悪い言い方をすれば常に保険をかけているようなものなので人によっては無理なものなのかもしれません。ですがまあ、僕は実際この生き方でものすごく楽に生きられているのでこれでいいのでしょう。もしも誰かの参考になるといいなと思いますし、それは悪いと思う!という反論もあれば聞いてみたいものです。
なんの話だっけ、ちょっと散らかりましたね。失礼しました。
ああ、思考の幅で健やかなメンタルを保つのいいっすよ、という話でございました。
だいたい話したいことは終わったかな?軽くまとめると、
・物語を読み解いて一般解を求めると、共感できる特殊解も見つかって大抵のことが肯定できる
・これは脳死全肯定とは言えないでしょう
・思考に幅を持たせとくといいことあるよ
って感じでしょうか、これが僕なりの全肯定の仕組みというわけでございました。
P.S.
ようこそ、P.S.の向こう側へ。
いい機会なので僕の大好きなP.S.の向こう側という曲のお話を少しだけしてみます。
僕なりに導いたこの曲の一般解は、「かつて心を燃やしたものへの正しい向き合い方」です。ちょっとふわっとしすぎかな?
それは例えば「昔の恋人」であったり「学生時代」あるいは「好きだったバンド」や「好きだったアニメ」だったりするかもしれません。
人はもつ好きというエネルギーはどうしても有限なもので、いつの日かそのエネルギーは小さくなってしまうものです。
その時にどうしてか人はただ熱がさめてしまうことを良しとしないばかりに、その対象が悪かったことにしようとしてしまうことがあります。
元カノのことや好きだったバンドをボロクソに言う人や、AqoursCLUB GOLD EDITIONの時なんかによく見かけた、好きだけど最近の運営はクソだからついて行けないわ…みたいな発言もこの意思の現れではないかと僕は思っています。これはちょっと話逸れちゃうけど。
そうではなくて、熱が冷めてしまった対象、あるいは過ぎ去ってしまった過去に対してもきちんと「ありがとう」の気持ちを持って、楽しかった日々を抱きしめましょう、ということを歌っているイメージです。ニュアンスが難しいのですが、未練とはまた違う過去を愛する気持ち。伝われ。
でもいつかいつかね
また会える気がするからさ
気のせいかもね
という表現は受け取りたいように受け取れるようあえて幅を持たせてあるように思います。
なのでもう戻ることの無いとわかっている過去に対しても、あるいはまた好きになるかもしれない何かに対しても当てはまって共感できるんじゃないかなぁと、いう感じです。
ちなみに余談ですが初めてこの曲を聴いた時思い浮かんだのは元カノでした。えへへ。でも未練じゃないんですよね、まじで。
アニメソングの素晴らしいところは求めた一般解にアニメキャラを当てはめられることです。そうして求められた一つの特殊解は新たな物語としてその作品にさらなる深みを与えてくれるんですね。
P.S.の向こう側芸人ことぺこさんのこの曲の解釈はそういう意味で僕に新たに深みを与えてくれる素晴らしいものでした。是非ご一読ください(無断引用)。
また、楽曲考察最ガチ勢(?)の十六夜まよさんの曲解釈はこれらとはまた全く異なるアプローチで、僕にとって特異解的な、これまた本当に素晴らしいものでした。是非ご一読ください。(無断引用)
まよさんの記事内で聴く人の数だけ曲の世界は存在すると述べられているのですがまさにその通りで、これがほんと楽しいんですよね。
なので皆さんも解釈違いだのなんだのに目くじらを立てるのはやめてがんがん自己流解釈を垂れ流してください。はい。
全肯定の話をしていたと思ったらいつのまにか随分遠いところまで来てしまいましたね。
予定よりもずいぶん長く書いてしまいました。
一般解だのなんだの言ってエセ理系みたいな、むやみに伝わりずらい文章を書いてしまいましたね…スミマセン。
ここまで読んで頂き本当にありがとうございました。皆さまに少しでも、何か気づきがあったのなら幸いです。
さて、私事ですがこの4月いっぱい東京に滞在しております。
なにぶん田舎ものなので人の多さに戦々恐々としながらもそれなりに楽しくすごしているのですが、妙な予定が増えなければ来週あたりに念願の初沼津に行ける予定です。
ですので次回の更新は初沼津来訪記かもしれません。あるいはそれ以外かもしれません。
こうやって今日も幅をもたせながら健やかに生きていくというわけですね。
それではまたいつか次回の更新でお会いしましょう!では。